父の備忘録
大切な備忘録
私の親父の話
昭和天皇が 崩御されてから
亡き父が これまでの事をたくさん話をしてくれました
なんかの形で この話を残しておこうと思い
こういう形をとりました
第2次世界大戦 戦前 戦中 戦後の
動乱に生き抜いた歯科医師の話です
主人公は 亡き父 歯科医師 大塚 襄(おおつか のぼる)大正14年3月7日生まれ
第2次世界大戦に突入したのは、1941年12月8日に、日本海軍がハワイ真珠湾のアメリカ太平洋艦隊へ総攻撃をかけた「真珠湾攻撃」からであります。父はその時若干26歳 当時
満州の鎮海(現在の釜山)で歯科医で開業した祖父(プール一杯 ビールを飲んだ男の異名を持つ (笑)の長男でありました 当時の鎮海は軍港の町であり
横須賀 呉 佐世保と並び 重要な軍港だったとのこと
祖父は当時の海軍に顔が随分と顔が利いたらしく 日本海軍の旗艦 長門 金剛
伊勢 などの艦橋に入らせてくれたらしい
そこで サイダーを頂いた話が好きで 晩酌でご機嫌の時は よく話をしてくれた(笑)
おまけに 潜水艦にも乗船したらいい
艦名ははっきりしないが大きさからすると 伊号だったようだ
当時父は京城歯科医専(現在のソウル大学)の学生で
戦後 東京歯科大学に編入した 戦況が悪化して
学徒出陣になり 終戦の2年前ぐらいに 召集令状(いわゆる赤紙)がきて
徴兵検査を受け(晩酌時 ご機嫌の時 俺は甲種合格だったと自慢げに言う 草)入隊
時代に飲み込まれていく
1945年 8月15日終戦を京城(現在のソウル)で迎え
武装解除の翌日 ロシア軍に拘束、手前2人まで シベリアへ送られ
自分は京城(現在 ソウル)から 命からがらで 歩いて 野を超え 山を越え なんとはか
鎮海(現在 釜山)へたどり着く その時は 祖父は岡山へ疎開しており鎮海はだれもおらず
帰還船に何とか乗るも 対馬海峡で枕崎台風に直撃を食らう
全員甲板へ出て救命胴衣を着て 靴を脱いで 俺もここまでかと頭をかすめたらしい
しかし 軍艦で鍛えた艦長の抜群の操艦で何とか台風をしのぎ
翌日 博多へ着く それは日本の戦後の始まり、混乱の極みだったらしい 続く・・・
余談
コロナ前 釜山で講演があり せっかくと思い 前乗りして ガイドさんつけてもらい
父が住んでいたであろう 現在の釜山港を訪れる 海からすぐに山が切り立っており
かなり 船底が深く大きな軍艦も入港できたであろうと思う
呉の軍港ににている 当時の風景を知らない私ではありますが
父から 伝え聞いた「鎮海桜」があった。 行った時期が夏だったので
桜は葉桜でありましたが 桜の下に立ち 海を臨むと この風景は
父も見たんだろうと思いつつ・・・・・
この時期の話は
①流れる星は生きている 藤原 てい (著)
夫は作家の新田次郎、数学者でエッセイストの藤原正彦は次男・・・ウィキペディア引用
日本敗戦から 満州の奥の奥 新京から 終戦後 ロシア兵に怯えながら
汽車で日本へ向かう 藤原一家 涙なくして読めない一冊
②戦場から届いた遺書 辺見 じゅん (著)
戦後 ロシア兵に拘束 シベリアへ 映画 ラーゲリより愛を込めて の原作
主人公 二宮和也が好演
③映画 ラーゲリより愛を込めて 原作 戦場から届いた遺書 辺見 じゅん (著)